SUR PAROLE

言葉にのって

ドライな正しさと優しい欺瞞の境界

先日、娘が「パパとママが小さかった時、〇〇ちゃん(娘の名前)はどこにいたの?」と質問してきた。

子供の時に誰もが親や兄弟に聞いてしまうゾッとするような性的タブーとは微妙に違うが、ドキリとして「とうとうきたかこの手の質問・・・」と呟かずにはいられなかった。答えの選択肢は2つあった。 

①「まだこの世界にはいなかったんだよ」
②「パパやママの一部だったんだよ」
 

①は生物学的には正しい。だがある意味では娘との紐帯を切るようなドライな回答だ。

②は受精前後数日という条件であれば正しいが、「パパとママが小さかった時」であれば生物学的には誤っている。しかし、ある意味では娘の心情を察した回答だとも言える。

 

結論から言ってしまうと、

結局①の若干ドライとも思える回答を選択する事にした。

 

理由は簡単で、②より①の方が相対的に正しい答えだと考えたからだ。
誤解して欲しくないのは、必ずしも②は間違った答えではないという事だ。何故なら、遺伝子レベルで論じるならば文字通り私と妻の体の一部として小さい頃から存在してきたわけで、
そういう意味では②の回答は正しいとも言えるからだ。


しかしながら、4歳の娘は遺伝子レベルでの回答を求めたのではなくて、
あくまで娘自身の存在そのものがどこにいたかを不思議に感じて私に質問したのだと考えられる。
そうであるとすれば、娘と呼べるような身体や精神(そもそも両者は分けるべきではいですが)は、私達両親が小さかった頃に存在していなかった事は紛れもない事実なのだから、それを誤魔化す理由もなければ、妙な解釈をした②のような欺瞞的な回答をするよりは、直截的な事実を述べた方が良い。
正直言えば客観的な事実を突きつけた時に、娘が実際どのような反応をするかという事にも興味があった。

実のところ娘は上記の回答を聞いて少し首を傾げた後に満面の笑みでこう言ったのだ。

 

「え!?いなかったんだ~(ニコニコ)」

 

まぁ、こんなもんですよね。